平成16年度第1回現地見学会

---実際にたどる死都日本(現地見学会)---


1.シンポジウム(11月6日)

2.現地見学会(11月7日)

 平成16年度第1回見学会は、「実際にたどる死都日本」(現地見学会)コースでした。
コースは、@山之口SA、A皇子原公園(露頭観察)、B田野の道の駅、C北郷フェニックス屋上、
D飫肥城、E日南はまゆう病院を望むサンヒル日南、F鵜戸漁港、の7地点を巡った。
 きのうのシンポジウムの熱気もさめやらぬままに、快晴の秋空のもと、 一行は宮崎駅東口へ集合、バス2台に分乗して出発した。
バスの中ではシンポの役員から当日の予定、自己紹介から始まり、
死都日本という小説の主人公の逃避行をトレースするという、おそらく前代未聞の企画の説明があった。

写真−0.宮崎駅集合


 @.山之口SA

 バスは宮崎自動車道に入り、第一のポイントである山之口SAで、
著者である石黒氏から「ここで、黒木は、、、」という主人公の行動説明があった。
 私は小説に書かれた黒木や、岩切君の行動を思い出しながら説明に聞き入っていたが、 ふと妙な感じにとらわれることがあった。
小説に書かれた行動を追体験すると言うことは不思議なことで、
これと似たことに歴史上の人物の行動を追体験するイベントがある。
例えば、坂本竜馬が脱藩し、土佐から出る時に通った峠を歩くとか。
しかし死都日本の黒木、岩切両君はあくまで著者石黒氏の作り上げた小説の作中人物であった。
SAで図を使って展開される説明は、紛れもない科学的な解説でありながら、
ストリーは小説であるという不思議な、不思議なイベントであった。

写真−1.山之口SA

説明は石黒著者


写真−2.山之口SA

説明は井村助教授


 山之口SAを出ると、天気がよいと右側車窓に高千穂峰の秀麗な山容が見えてくるのであるが、
この日は水蒸気の多い空気のため、その姿は見えなかった。

写真−1’.霧島連山・高千穂の峰他

山之口SAより(撮影は12月)


 A.皇子原公園(露頭)


 都城インター付近では、「このあたりで、黒木君がバックミラーにうつった火砕流を見つけます」 という説明に一同深くうなずいた。
 高原インターを出て、皇子原に近づくと車窓いっぱいに広がった高千穂峰、御鉢が見え始めた。
地元民にとっては珍しい光景ではないが、
他県からの参加者からは「スゴーイ」のため息が聞こえると、自分の物ではないがなんとなく誇らしい気持ちとなる。
これを郷土愛と言うのだろうと思う。
 皇子原では露頭の見学があった。
最上部に1235年の御鉢噴火による真っ黒なスコリヤ層があったが、
この時の噴火によって、この周辺は1mから2mの噴出物に覆われたのことであった。
1235年と言えば、歴史上では鎌倉時代の初期で、源頼朝が幕府を開いた後、北条政子に政権が移っていった頃である。
 露頭の、深さ10mあたりには、私たちには見慣れた赤ホヤが約1mの層厚で、ウシノスネに挟まれていた。
このあたりでは1916〜17年にも噴火があり、現在の狭野神社ー帯は焼き払われたとのことである。
1917年と言えば、ロシア革命があり、国内ではシベリア出兵へと続く歴史の転換期であった年である。
緑豊かな周辺の田園風景を目の前にして、これら全てが、焼き尽くされ、埋め尽くされる光景は想像に困難であるが、
それが紛れもない歴史であったのだろう。

写真−3.皇子原公園(露頭)

井村助教授の説明(アカホヤと牛の脛テフラ)


 B.田野、道の駅

 皇子原から再度宮崎自動車道にのり田野へ向かい、田野ICで高速を降り、ここから県道日南高岡線に入った。
このあたりからが、小説中では黒木、岩切君の難行苦行のところである。
小説を読みながら、自分も作中人物となり「こちらに逃げればいいのに」と考えた所でもある。
田野の道の駅で昼食となった。


写真−4.田野、道の駅

キッチン火山学噴火実験


写真−5.田野、道の駅

著者の説明を聞く。


 C.北郷フェニックス

 道の駅からは火砕流に追われ大戸野越えを越え、日南市に向かう長い下り道となった。
北郷フェニックスホテルでは、ホテルの屋上から眼下に広がる北郷から日南の地形と地質の説明があった。
このあたりは、本会でも見学場所として来たことがあったので、会員のよく知る所であり、
宮崎層群の基底礫岩の説明や傾斜した砂岩層、化石の説明をする会員の声が聞こえていた。
 バスの中で石黒氏から「何か質問は」との問いかけがあり、
死都日本の出版までの経緯を質問したところ、「出版までに4年4ヶ月かかった」と言う明快な答えが返ってきた。
さらに同乗していた出版社の担当者から、
死都日本の原稿がアウトライン投稿で、半年(?)編集局で眠っていた、という経緯も話された。
 北郷の町を抜ける時、黒木、岩切君が逃げ込んだ日南線のトンネルの説明があった。
単線の便数も少ないトンネルであるが、もっと有名になって、ほしいと思うトンネルである。


写真−6.北郷フェニックス屋上

ここで、石黒著者と後藤会員のウニ化石論議が始まった様?です。


 D.飫肥城

 飫肥城では白壁の基礎に使われた凝灰岩の石垣を張り付くように見る一行を、
観光客が珍しい物を見るように見ながら通りすぎていった。
 おりしも日南飫肥を舞台にしたNHK朝ドラの波及効果か、多くの観光客があった。
ここでは飫肥城大手門をバックに記念写真をパチリ。
県外からの参加者は飫肥城見学で、県内参加者は土産物屋の物色や、渇いたのどをビールで潤す者もいた。


写真−7.飫肥城の石塀

入戸火砕流の溶結凝灰岩観察


写真−8.1.飫肥城にて記念撮影



写真−8.2.著者と会員の記念写真



 E.日南はまゆう病院

 日が傾き始める頃、小説中ではマリ子さんの待つ病院(日南はまゆう病院)を遠望した。


写真−9.日南はまゆう病院を望む

「サンヒル日南」


 F.鵜戸漁港

 続いて脱出の地、鵜戸港へ。
鵜戸港では折しも満潮のため、先端部分しか見えない鬼の洗濯岩にカメラのフラッシュがひかり、
ガイドの井村先生に対して、「なぜ、地層が海側に傾いているのか?」という質問に
先生からはプレートの動きを基本にした明快な答えが聞こえてきた。
 見学はここが最終ポイントなので、今回の見学を企画した林先生から挨拶があり、
参加者からはこれに答えた大きな拍手がわき起こった。

写真−10.鵜戸漁港地点



(レポート:高谷精二)

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