付録.竜ヶ水の研究成果


竜ヶ水北沢における治山ダムの破壊過程とその原因

−−−2002年10月31日−−−

1.はじめに

 鹿児島県は平成5年7月から8月にかけて記録的な豪雨に見舞われ、大きな被害を受けたが、 特に8月6日には日降雨量259mmという豪雨があり、鹿児島市内を中心に大きな被害が発生した4)。
 この時、鹿児島市の北東部、竜ヶ水地区でも多数の土石流や斜面崩壊があり、 竜ヶ水北沢では二基あった治山ダムのうち一基が破壊しそのコンクリート塊が土砂とともに、 JR竜ヶ水駅で待避中の列 車を直撃、車体を切断し百十数m押し流すという被害があった12),13)。
 一方被害発生当時、竜ヶ水周辺の沢には治山ダム、砂防ダムを含め9基が設置されており、 それらはダム天端や袖部に部分的な損壊はあったものの、岩塊や流木を捕捉し災害を軽減するという、 ダム本来の目的を十分に果たしていた。
したがって,破壊・流失したものは竜ヶ水北沢の一基のみであった。
 このため,ダムの破壊・流失原因を明らかにすることは,今後この地域でダムの計画をする上で、 重要なことと考え調査を行った。
 この結果、ダム流失原因は左岸側根入れ部が、崖錘堆積物とぼら層で構成されていたため、 これが侵食されダムは左岸側の支えを失い、その後の土石流により破壊したと結論づけるに至ったので報告する。

2.調査地の概要

 災害のあった竜ヶ水北沢は,鹿児島市の北東部にある磯公園から北へ約5kmの地点に位置する(図−1)。






 図−1鹿児島市吉野町竜ヶ水付近

 沢の出口にはJR竜ヶ水駅があり、駅舎の約10m下には国道10号線が線路と平行に通り、道路の片側は鹿児島湾に接している。
沢の出口(海)から分水界までは水平距離で約550m、集水面積は約4haである。
 流域の最高地点の標高は302mで、頂部には県道(吉野公園線)が通っている。
流域斜面の平均傾斜は約30度であるが、斜面を構成する地質によっては45〜60度の急傾斜面の場所もあり、 標高170−200m付近に分布する玄武岩層と240m以上に分布する溶結凝灰岩層は垂直に近い崖となっている。
 竜ヶ水北沢には二基の治山ダムがあり、本文中では昭和55年につくられた下流側のものを1号ダム、 昭和58年にこの26m上流側につくられたダムを2号ダムと呼称している。
 竜ヶ水一帯の沢の長さは、最長の竜ヶ水北沢でも550mで、短い沢は200mにたりないものもある。
このため,地図上に記載された沢の名称はなく、鹿児島県では竜ヶ水地区(急傾斜地崩壊危険区域)と呼称し、 鹿児島市では竜ヶ水谷第2水系(土石流危険渓流)と別の名称となっている。
このため本論中では竜ヶ水北沢という仮称を用いた15)。

3.崩壊と地質


 3.1竜ヶ水北沢の地質


 この地域の地質、地史については大木10)によって報告され、崩壊との関係についてもいくつかの報告がある2・5,6,15)。
 これらによれば、竜ヶ水北沢の地質は下部から上部へ安山岩、玄武岩層、花倉層、磯凝灰岩部層、 吉野火砕流堆積物(溶結凝灰岩)の順にほぼ水平に近い傾斜を成して分布している(図−2)。






 図−2 竜ヶ水北沢左岸崩壊の地質断面

 これらは岩石の分類からは、火成岩と堆積岩に分類でき、この内、磯凝灰岩部層は末固結な砂層、礫層である。
また,安山岩や玄武岩は、部分的には風化や節理、亀裂の発達はあるが全体的には岩体である。
 このように堅硬な地質と未固結で柔らかい地質は選択的な浸食を受けて、溶結凝灰岩はほぼ垂直な崖になっているのに対し、 磯凝灰岩層は、斜面傾斜が30度前後の緩い斜面となっている。
すなわち、傾斜変換点は地質の境界を成し、現地においてもまた空中写真によっても容易に判別できる。
 崩壊箇所はある程度地質に特定され、
@溶結凝灰岩と花倉層(磯凝灰岩部層を含む)との境界付近、
および
A安山岩分布地域
に分布することが報告されている。
 安山岩の分布は海岸部から玄武岩層の下位にあたる標高169mまでである。
この安山岩は竜ヶ水安山岩と呼ばれ全体的には灰色〜灰白色で、岩石の表面は風化が進んでいる。
また,節理が発達し節理の間には亀裂の発達がみられる。
 造岩鉱物の中では輝石の風化が目立ち容易に剥離する。
このため安山岩は吸水性(4.3%)を有することが報告されている15)。
 竜ヶ水北沢の右岸側は、傾斜がほぼ垂直な安山岩で構成される沢となっているが、 ここには表層部分が薄く剥ぎ取られるような崩壊跡が見られる。
玄武岩層は,標高169mから200m間に分布し、幅40mにわたって崩壊した。
 玄武岩層には柱状節理が発達し、この地域では垂直な崖を構成していることから、 崩壊の時には長柱状の岩塊となって崩落したものと考えられる。
玄武岩層は,赤褐色の凝灰岩をはさみ3層認められ、下部から、白浜、平松I、平松Uと分類されている10)。
 玄武岩層の下位には、安山岩との境界に分布する層厚10〜30cmの赤褐色の凝灰質砂礫層が見られ、 場所によっては火山活動に伴うと考えられる白色の砂層、軽石混じりの砂層、集塊岩状の溶岩が分布する。
なお,玄武岩層は竜ヶ水北沢では3層分布するが、竜ヶ水登山道では、層厚約8mの層が1層のみである。
 花倉層は玄武岩の上位にあり、粘土、砂、礫の固結した海成層で、竜ヶ水北沢での走向はN720Eで60 S落ちである。
分布は200〜240mまでの間で、竜ヶ水北沢の崩壊では頂部にあたる。
 崩壊の頂部周辺には崩壊した土層の断面が見られるが、これによれば斜面堆積物は現在の桜島起源と考えられ、 スコリヤを含む数cmの火山灰層と、この下部に10〜20cmの風化土の堆積がみられる。
したがって,土層の層厚は数cmから30cm程度と見られる。
 磯凝灰岩部層は、竜ヶ水登山道にそった竜ヶ水南沢の源流部では、崩壊の最上部となっている15) が竜ヶ水北沢では露頭はみられなかった。
 溶結凝灰岩は柱状節理が発達し、地形も急崖を形成している。
分布は240mから流域頂部(標高300m)までである。
 竜ヶ水地域の斜面には溶結凝灰岩の岩塊(2〜4m)が点在し、ダム工事のための床掘りによっても多数見いだされている。
また,1977年の竜ヶ水沢の土石流によって流出した岩塊が国道下の海中に存在しているが、 この中にも直径1〜2mの洛結凝灰岩があることから岩塊として流下し、大きな破壊力になるものと考えられる。
 崖錐堆積物は玄武岩層の下位(標高169m)から2号ダムの堆砂面(標高51m)までの間に118m連続している。
崖錐を構成する岩石は,玄武岩、溶結凝灰岩、安山岩の岩塊〜角礫であるが、 溶結凝灰岩、玄武岩は直径が1mを超える岩塊として、玄武岩は岩塊から数センチの角礫まで広い粒径で分布している。
なお,標高90m付近には、落差約5mの滝状地形があり、 ここには,崖錐斜面を構成する直径数cm〜20cm程度の角礫層の断面がみられる。
その他、特異なものとしては、円礫となった花倉層のシルト岩(黄色)も混入している。
 8月6日の崩壊ではこれらの崖錐堆積物が侵食され2号ダム上へ、土石流となって流出したものと考えられる。

3.2.治山ダム周辺の地質

 1号ダムの右岸は節理と亀裂の発達した安山岩で構成されている。
流出した1号ダムの袖部にあたる場所は節理と亀裂の発達した岩盤で、ハンマーの打撃により数センチの角礫状となる。
 ダム周辺岩盤には層状を呈する部分もみられ、その走向、傾斜はそれぞれN32 E、48 Nで受け盤構造を成す。
安山岩は,風化形態の一種であるオニオン構造が見られる。
 ダムの堤底部は安山岩、玄武岩、溶結凝灰岩の岩塊を含む渓床堆積物によって構成され、 岩塊は大きいものでは直径2〜3mあり、この間隙を数cm〜数十cmの礫が埋め、さらにその間隙を礫、砂、粘土が充填している。
 ダムの左岸側斜面を構成する崖錐堆積物も、ダム堤底部と同様岩塊が点在する間を数十センチの礫が埋め、 礫間を火山灰を含む風化土が埋めている。
岩塊の大きさは1〜2mで、平均的には直径0.2〜0.5m程度である。
 岩塊の岩石種は竜ヶ水北沢をつくる玄武岩、安山岩、洛結凝灰岩の三種類であるが、 その大きさにはある程度の規則性が見られ、安山岩が0.2〜0.5m、玄武岩は0.2〜1m、洛結凝灰岩は大部分が1mを超えている。
 ダムの流出により左岸側の根入れ部分が露出したが、ここにはレンズ状に分布するぼら層が見られた(写真−1)。




 写真−1.1号ダム左袖部に見られたぼら層,5度傾斜

 ぼら層は1号ダム左岸袖部に分布し、現地表面から深さ約4mのところに厚さ約3m、幅約5mにわたっている。
ぼら層の走向、傾斜はN80 E、10度東おちであった。
現地表面の傾斜が約15度東おちであることから、それよりも少し緩い傾斜である。
 ぼら層を構成する軽石は、灰黄色で粒径は5〜10mmで柔らかい。
このため,層自体も柔らかく素手で容易に掘り崩すことができる。
 竜ヶ水地域でのぼら層の分布はこの他に数ヶ所見られ、竜ヶ水北沢においては、 標高110m付近に生じたガリーの断面(深さ約1.8m)にもレンズ状に分布する。
また,竜ヶ水北沢から南へ約100mにある竜ヶ水南沢の出口付近(標高約30m)にも、 擁壁の床掘り中に幅10m厚さ0.5〜1mの層がみられた。
 ぼら層は,一般に地耐力に乏しく、透水係数が高いため土木構造物の基礎としては不適当な地層として、 岩盤に乏しい桜島での砂防ダムの施工において問題となった地層である1)。

4.土砂の流出源と土砂量の推定


 竜ヶ水北沢の崩壊源は二ヶ所あり、一ヶ所は竜ヶ水北沢の本流、標高約200m付近の玄武岩斜面の 崩壊地で、もう一ヶ所は2号ダムの左岸側斜面に生じた崩壊である。
ここは,本流崩壊よりも標高で、20〜30m高い場所に分布する花倉層の斜面部位から崩壊している(図−3)。
なお、本文中では左岸斜面に生じた崩壊を「左岸崩壊」と呼称する。




 図−3 竜ヶ水北沢流域

 4.1源流部の崩壊と渓床侵食土量

 竜ヶ水北沢の本流は、2号ダムから北側へほぼ直線状にのび、崩壊箇所までは水平距離で約150mである。
 崩壊場所の地質は,標高200m付近に分布する節理の発達した玄武岩層で、崩壊面積は玄武岩 の新鮮な面が出ていることから、100〜200m2程度と推定できる。
 崩壊した玄武岩層の厚さを0.5mと仮定すると、崩壊容積は50〜100m3と推定できる。
玄武岩層の下部には傾斜40〜60度の急な岩盤性の斜面が約30m続いた後、安山岩を基盤とした沢となる。
沢の渓床は崩壊とその後に生じたと思われる土石流により侵食され、一部を除き基盤岩が露出した。
沢の側面には,土石流の浸食から取り残された旧渓床面が、小規模な土石流段丘として残されていることから、 渓床に堆積していた土砂の厚さは1.5〜3mであったと考えられる。
 渓床堆積物の厚さを平均2mと仮定すると、渓床から流出した土砂量は750m3と推定できる。

 4.2 左岸崩壊と崖錐侵食土量

 左岸崩壊の最上部(標高238m)は花倉層から成り、ここで発生した幅約20m、 高さ約40m、崩壊深さ10〜20cmの小規模な表層崩壊(推定土量80〜160m3)は、 その下位の層厚約30mの玄武岩層を削り取りながら崩落したものと考えられる。
 玄武岩層の下位には急傾斜の崖錐斜面が分布し、2号ダムの堆砂面まで続いている。
崖錐の傾斜角は標高50〜100mでは36度、標高100〜180mでは42度である。
 崩壊発生後、崖錐斜面上の植生が剥ぎ取られたが、この幅は20〜30mであったと推定できる。
植生が剥ぎ取られた部分にはガリーが形成されたが、標高100m以上の部分では深さ30〜50cm、 幅50〜100cmのガリーが3本生じ、100m以下ではこれらが集合し1本となり, 深さを増しながら2号ダムの堆砂面に達しているが,ここでのガリーの深さは約4mであった。
 以上のことから,左岸崩壊の規模は斜面長100m、平均幅20m、崩壊深さ平均2mと仮定すると、 浸食された土量は約4000m3と推定できる。

 4.3 ダムの堆砂量

 1号ダムの流失により堆砂していた土砂はすべて流出したが、 その量は復旧したダムの堆砂量が985m3であることから約1000m3と推定される。
したがって,竜ヶ水北沢から流出した土量は、約6000mと推定できる。

5.構造物の配置と被害

 災害前、竜ヶ水北沢には、二基の治山ダムの他に落石防止壁、擁壁、排水溝が設けられていたが、 これらは各々部分的な被害を受けた(写真−2)



 写真−2 残存した2号ダムと流出した1号ダムの一部,ぼら層の露頭(右端)

 5.1.治山ダム

 1号ダムは昭和55年に、2号ダムは,この上流側に昭和58年につくられた。その概要は表−1示した。
 被害を受けた1号ダムは、堤体の約90%が流失した(図−4).





 図−4 1号ダムの流失部分(ダムの形状は推定)

  残ったものは右岸袖の下部と渓床以下の部分である(写真−3)。




写真−3 倒壊流失した1号ダムの右袖部。

 ダムの堤高、堤長は、残ったコンクリートや浸食跡などからそれぞれ10m、23mと推定した。
 災害前のダムの堆砂量は、満砂状態であったと言われている(住民談)。
 流失した1号ダムの堤体の一部はJRの線路を越え118m流され、民家のあった場所に停止した(図−5)。






 図−5 竜ヶ水北沢における構造物の配置と流下場所

 2号ダムは1号ダムの上流側に位置していたが、堤体自体には被害はなかった。
しかし,右岸側の前庭部が1.5m侵食されダム堤底部分が露出した(写真−4).
これは満砂した1号ダムの堆砂面が2号ダムの堤底面より約2m高く、水褥部を兼ねていたことに起因すると考えられる。
 また、右岸側の浸食が大きかったことは、左岸崩壊が右岸山腹に遡上して、1号ダムの堆砂地に流入したことを示している。
左岸側では、袖部から流下した土砂により袖根入れ部が侵食され、堤体と崖錐との接触部が露出した(写真−5)。





写真−5 2号ダムの左袖部,根入れ部の流出

 2号ダムが倒壊を免れたのは、左岸側袖部天端上に停止した溶結凝灰岩の岩塊(1×2.5×3m)により、 土石流が山腹側に流れるのを妨げ浸食を防いだため、根入れ部の浸食が進まなかったという偶然によるものであろう。

 5.2 落石防止壁

 落石防止壁は,竜ヶ水北沢の左岸山腹からの崩壊(幅10m、高さ30m)を防止するためにつくられたものである(写真−6)。





写真−6 落石防止壁の跡

 現地は急勾配のため段差をつけた二列の擁壁(高さ5m)の上に、 鉄骨によるラムダ工が施工され表面にはクッション用の古タイヤがとりつけられていた。
全長は25mあったが、その内の10m(定)が流失した。
流失したラムダ工(鉄骨)は2つに壊れ、1つは100m、他の1つは130m流下し国道のほぼ中央部で停止した(表−2)。
 表−2 流失物の流下距離

5.3 土留め擁壁

 流路に沿い右岸斜面からの崩壊を防止するため擁壁がつくられていた。
この天端には落石防止のめネット工(高さ1m)が施工されていた(写真−7)。





 写真−7 残存した擁壁

 擁壁の高さは3.5mで、幅5.8mのブロックで施工され総延長は50mあったと推定される。
流失したのは擁壁の最下流部分で、この部分は特徴のあるL字型をしていた。これは流失しJR線路 を越え約63m流下、国道のほぼ真ん中に停止した。
 被害を受けた物とその流下距離は、現場写真により物件を確認し1万分の1の地形図上に記入し距離を測定した(表−2)。

 5.4 排水施設

 竜ヶ水北沢の出口には、市道、JR線路、国道が平行して走っているため、沢からの水は排水溝により排水されていた。
このため,排水溝の断面積は市道と線路の下では0.2m2(幅65cm×深さ35cm)で、 国道の下でも約0.5m(直径80cmの円管)であった。

6.土石流の流下方向の推定

 砂礫型の土石流では、コンクリート構造物にその擦痕が残され、 流体中に含まれる岩塊の移動方向が推定できることがある。
 竜ヶ水北沢でも被害を免れた2号ダムの袖天端には、岩塊が天端を通過する際につけたと思われる擦痕が多数残されていた。
擦痕の形状は線状と面状のものがあり、深さは数mmから1cm程度である。
線状擦痕は比較的小さく、角張った岩石が削ったと考えられ、短いものでは数センチ、 長いものは数十センチから1mにおよんでいる。
面状擦痕は大きな岩塊が天端上をずれ動いたものと考えられる。
 これらの擦痕はコンクリート面が乾燥している時には明瞭ではないが、 桜島の降灰後降雨があると、降灰中の有色鉱物(雲母、角閃石)が擦痕中に溜まり、 灰色のコンクリート上に黒色の線または、面となり明らかとなる(写真−8)。





 写真−8 天端上の擦痕

 2号ダムの袖天端に残された擦痕の方向は、ダム中央の水通し部から左側ではダムに対しほぼ直角であるのに対し、 右岸側では右側へ偏る傾向が見られた。
このため,天端上の擦痕方向を調査した結果、右岸から1mまでは46度、1mから2mまでは65度、2mから3mまでは60度、 3mから4mまでは69度、4mから5mまでは79度、5mから6mまでは85度となった(図−6)。





 図−6 天端上の擦痕(右側)

 災害後右岸側山腹に、渓床より約3mの高さまで、植生が剥離された部分が残されたが、 その原因は,左岸崩壊により流下した土砂が、右岸山腹に衝突し、遡上したことによるものと考えられる。

7.治山ダムの破壊・流失過程と原因

 1号ダムの破壊・流失過程は、次の3つの段階に分けることが出来る(図−7)。






 図−7.1号ダム流失過程の推定図

@左岸から崩壊した土砂の右岸山腹への衝突と遡上
A2号ダムからの土石流の流下による堆砂地の攪拌と左岸根入れ部の流失
B土石流の衝突による1号ダムの破壊
 第1段階では、左岸側の花倉層最上部から崩壊した土砂が、下部の崖錐堆積斜面を侵食しながら落下し、 2号ダム堆砂地の上流側25mの地点で本流に対し約25度で合流直進し、右岸山腹に衝突、斜面上を高さ約3mまで遡上している。
斜面上を約3m遡上した土砂は、方向を変え1号ダムへ流下した。
ダム高が約13mのため、土砂は遡上した位置から1号ダムの堆砂面まで約16mの落差で流下したことになる。

 第2段階では、1号ダムへ流下した土石流は、堆砂地を激しく攪拌し流下し、袖天端を約2m越えて両岸の山腹を侵食した。
しかし,右岸側は岩盤のため表層土壌が浸食を生じたのみであった。
左岸側は,岩塊、風化土、降灰により構成された崖錐堆積物のため、左袖切り込み部が侵食され決壊した。
この結果ダム内の堆砂は流出し、ダムは片持ち梁の状態になったと考えられる。
 なお、この時,ダムの下流にあった落石防止壁は、ダムの堆砂が流出する流路にあたったため、 破壊され流失したと考えられる。

 第3段階では、左岸側切り込み部の侵食により堆砂が流出し空になったダムに、土石流が衝突し、 ダムを破壊・流失したと考えられる。
 1号ダムの堤体で残った部分は、右岸の一部と渓床部分である。
 以上のように,1号ダムの流失した直接の原因は、土石流の流下によるダム左岸根入れ部の浸食と言うことができる。
 左岸侵食の原因としては、
@ダムの左岸が崖錐堆積物のため容易に浸食されたことと、
A崖錐堆積物の中に耐侵食性に弱いぼら層があったことがあげられる。






 図−8.天端上の擦痕(左岸)

8.まとめ

 竜ヶ水北沢の治山ダムの破壊流失過程を明らかにするため、調査を行った結果、下記のことが明らかとなった。
1)竜ヶ水北沢の土石流の発生源は2ヶ所の山腹崩壊である。
一つは左岸側斜面の崩壊で、崩壊の最上部標高238mは花倉層から成り、 もう一つは本流側斜面の崩壊で、その最上部標高200mは玄武岩層から成る。
2)左岸側斜面の崩壊は、花倉層の斜面部位が発端となり、玄武岩層の斜面部位に及んだ後、 崖錐堆積物上を浸食しながら流下した。
本流側の崩壊は玄武岩斜面で発生した後、渓床堆積物を浸食しながら土石流となった。
3)左岸側斜面の崩壊と本流の土石流は、2号ダムより1号ダムへ流下したが、 左岸崩壊の土砂は2 号ダム右岸側で山腹に約3m遡上した後、1号ダム方向へ流下した。
本流の土石流は2号ダム上を直進した。
4)2号ダムからの土石流の流下により、1号ダムの堆砂は撹拝され泥状となりダムの左岸側を浸食した。
ダムの左袖根入れ部は崖錐堆積物とぼら層のため、耐浸食性に乏しく容易に浸食された。
5)1号ダムの左岸袖切り込み部はやがて決壊したため、堆砂は流出し空になったダムは、 土石流の衝突により破壊され流出した。

謝 辞

 本研究を行うにあたって現地調査および測量に多大のご協力をいただいた、 当時南九州大学学生であった塩田高士君(現:ライト工業)、平井大介君から多大な協力があったことを記し、謝意を表します。

参考文献

1)土質工学会九州支部会編(1983):九州・沖縄の特殊土、九州大学出版会 pp.171−178.
2)春山元寿・下川悦朗(1978):鹿児島市竜ヶ水地区の山地崩壊・土石流災害について、 新砂防、No.107 pp.33−38.
3)建設省河川局監修、日本河川協会編:建設省河川砂防技術基準(案)設計編(U)、 山海堂,pp.11−12.
4)北原一平・河村和夫・佐口治(1994):鹿児島8月6日災害における土砂災害調査報告、 地すべり、Vol.31、No.1、pp.56−63.
5)北村良介・地頭薗隆・矢ケ部秀美(1994):斜面崩壊の形態と分類、1993年鹿児島豪雨災害−繰り返される災害−、 土質工学会、pp.45−53.
6)是枝慶(1994):鹿児島市周辺の地盤災害(8・6災害)、1993年鹿児島豪雨災害−繰り返される災害−、 土質工学会、pp.69−94.
8)村田重之、渋谷秀昭(1992):1990年7月豪雨による熊本県阿蘇郡一の宮町古恵川の砂防・治山ダムの破壊と流出土砂量、 自然災害科学、Vol.11、No.3、pp175−185.
9)大木公彦・早坂祥三(1970):鹿児島市北部地域における第四系の層序、鹿児島大学理学部紀要(地学,生物)、 No.3、pp67−92.
10)大木公彦(1994):8・6豪雨被害と鹿児島市の地質、1993年鹿児島豪雨災害の総合的調査研究報告書、 1993年豪雨災害鹿児島大学調査研究会 p.61−71.
11)太田岳洋・大島洋志・大保正夫(1993):1993年8月の鹿児島市竜ヶ水地区における土石流および斜面崩壊について、 応用地質、Vol.34、No.5 pp.37−44.
12)高谷精二(1994):鹿児島市竜ヶ水駅でおきた土石流による列車切断について、 平成6年砂防学会研究発表会概要集 pp.401−404.
13)高谷精二(1995):竜ヶ水北沢の砂防ダムの崩壊と流出について、平成7年度砂防学会研究発表会概要集 pp.57−60.
14)高谷精二(1995):平成5年8月の鹿児島市竜ヶ水、平松・地区における斜面被害について、 新砂防、Vol.47、No.6、pp.24−27.
15)高谷精二(1996):鹿児島市竜ヶ水、平松地区の山地崩壊と地質、応用地質、Vol.37、No.1、pp.41−45.





竜ヶ水の物語にもどる。
HOMEにもどる。 inserted by FC2 system